愛の眼鏡は色ガラス

転写される自意識

進む秒針は何周目でしょうか

簡素な懺悔をさせてください。インターネットで、ブログで、神父様は皆様ということで。いや、本当は許しなんて得たいわけではないのですけれど。

去る五月二十二日あたりから、二日通して、昔の知人のオファーでイベントに出演して、ごく短いパフォーマンスをしたのですが、うわあ過去が今清算を求めているって思ったわけです。
人間を壊したり、人間を繋いだり、正負で言えばトントンくらいな働き加減でして。昔の知人に言わせればマイナス、今の友人に聞かせるとプラスで、僕は結局関係を消耗という形でしか、使えないなとまた省みました。
だからと言って、簡単に変えられてたら困ったりしないんですよ。

久しぶりに覚醒剤キメたらこんな感じかなというような、高揚感と覚醒感と、終えた後の虚無感と、またもう一回あの味をと求めてしまう狂おしい飢餓感とがぐるぐる。
私は一人のお化けになってしまったんです。お化けですから、生身の人間には勝てません。生者の苦楽を恨めしく思うしかありません。ずっとずっと、もうこれから一生僕はそれを恨んで羨んで生きるんでしょう。
ずっと前に考えていた、人間を救ってひいては自分を救うというのは遠く彼岸の彼方先なわけで。最早、今は亡者の煽動家、いきはよいよい、かえりはありません。進みっぱなしの死出の旅。葬列の指揮って感じ。
また次があるのか、次があっても、僕はもう決定的に昔のどうやっても生きたいんだって正とか生への執着はなくなってて、嘘うそうそ、ただの落伍者への誘惑ってなもんで。
本当にただただ自分の瞬間の快楽と精神の麻薬のためだけに、もしこれからまた舞台に立っても、目的が決定的に違ってしまってて、ああもう僕は誰にも何も語る資格は無いのだと思うんですが、口がある死人に成り果てました。

とかく生活はしなくちゃなりません。ご飯は少しだけ食べます。お酒は日々飲みます。音楽を聴いたり、映画を見たり、本を読んだりして、世相を憂いて、後は言われたことをやります。そうやって生きるしかもう僕には能がないんですから、少しそうっとしてやってほしくて、君たちのことはとても好きですけれど、僕は何もしてあげることはできなくなってしまってるんです。

明日も仕事ですし、五日間仕事ですし、そしたら二日休んで、また五日間仕事なんです。カリカリと毎日自分が削れることに耐えれるようになってしまったので、毎日が違うように生きたいとは思うけど、それももう叶いません。

人はもっと安らかに寝たり起きたりしてほしいです。皆さん、どうかお元気で。

月猫に蜜の弾丸

心身共に芳しくない。季節の変わり目はいつもそう。
だいたい睡眠が二時間半〜三時間スパンくらいで途切れてしまうんですけど、何かの病気かよ、と疑う余地もない位もはや常態化しているわけで。
日々の憂鬱は三時間おきにやってくる。三時間意識を失って、30分思案することの繰り返し。睡眠すらも甘えさせてくれない。


サラリーマンは現代で一番卑しい生き物かもしれないと、電車の椅子取りゲームに興じながら思う。
たかだか10数分の着席のためにさも「私は急いじゃいないんですがね、ほら、目の前の椅子が空いていやがる。ちょうど毎日のお勤めで疲れた私が座るにはいいあんばい。」みたいな顔して人を押し退けなきゃならないなんて、貧しいと言う他ない。
でも、同じ運賃払うなら座りたいし、ぎゅうぎゅうの車内で赤の他人とパーソナルスペースを侵したり侵されたりしながらバランス感覚を養うのはもっと嫌なわけで、またこれも貧しい。
要は、毎日決まった時間に決まったところに行かなきゃならないから、椅子のことや運賃のことを考えなくてはならないのだし、今日は天気もいいし、電車は満員だから、ちょっと午前中は海を眺めてから働くかなんて余裕さえあれば、日本人は毎朝卑しい電車に乗らずに済むのだ。
その第一歩として、仮病を使って散歩したら診断書は要求されるわ、本当に体調悪くなるわで踏んだり蹴ったりな感じになって、絶対こんな仕事辞めてやる!って躍起になって今午後七時ってわけです。
毎日だって休みたいし、毎朝ホットケーキ焼いてお茶してから一日を始めたいし、お昼はテラスのあるところでご飯食べたいし、仕事は日が傾くと終わりにしたい。
家に帰るとネコ足のバスタブがあるっぽい人間になりたいわけです。


春なので、よく恋愛の話を振られるんですけど、僕はこの世の中で一番無駄な話題は恋愛の話だと思ってるので、僕に恋愛の話を振らないでくれって感じ。
そんなことより、君の原風景は何だ?とか好きなアイスクリームの味は?とか一番古い記憶について話していれば、まぁ勝手に恋愛なんておまけでついてくるわけで、恋愛を話すって空気の構成を無視してO2にフォーカスをおいて「呼吸は大切!」って言われてるみたい。いや、呼吸は大切なんだけど、お前の吸ってるそれは色々混ざっているし、ああなんか夕飯時でいい匂いがしてきたぞ。

森永マミーのでかいパックがいつの間にかお値段据え置きで900mlになっているのを知っているか?世の中はそうやって音もなく変わっていく。

盲人書簡

日々、人間を達観しようと努めてインターネットを右往左往する皆さんおはようからこんにちわこんばんわまでをフォローする私です。

死生観が、ここ数年でじくじくと腐ってしまっていることが一つの悩みです。
社会人として真っ当に毎日を過ごすことで、自分の中で見過ごせない色々な事を見ないようにしなくちゃいけなくなって、そういう小さい傷なものが膿んできて何が何でも生き長らえる!といった生物本来のエネルギー源は意識と理性に取って代わりました。
気力が萎えるとか、死にたいなんて病的な能動もなく、何と無く死に切れないし、来週の予定もあるから来週までは生きようといった惰性の毎日で、これこそ学生の時分に恐れていた″社会人″といったやつに成り下がった失望感でいっぱいなんです。
悲しいことに、精神は完全に健康で、思考と嗜好ばかり社会からどんどんと逸脱していって、名前をつけるとすれば、僕はただの怠け者なんだろうといったところで。

人間らしさとか、QOLとか、よくわかりませんが。僕は天気のいい日は散歩して、雨の日は読書をしたりできる生活がしたいだけなのに、何だか朝から晩まで机と椅子とコンピューターに縛り付けられてたら、気が滅入ってしまうなあ。


SNSって基本的には好きなんですけど、数値と人間の思念って、無機と有機が絡みついたみたいな不和があるじゃないですか、そういうよく分からないお化けみたいなものにたまに取り込まれそうになってしまって、逃げ出したくなるんですよ。嫌な癖だなとは思うんですけど。
お化けみたいなものは、人の欲求を食べて肥えて大きくなるみたいで。それこそ、色んな人からの視線や色んな人への視線や、フォローフォロワー数、誰と誰が仲が良くて誰と誰が仲が悪くて、好きな事嫌いな事、セックス、好きな人と一緒にいたいとか、まぁそういうごった煮が、嘔吐物みたいに臭ってきて、僕は人間がもうダメなのではないかと他者と自己に半分こずつ嫌悪をくれてやるわけ。

死ぬしかない!ってわけでも、生きよう!って感じでもないですが、少し疲れました。多分、あったかくていい匂いがして感傷的になるから。桜の季節はいつも何か駄目になります。

雑文の夜

頭痛が酷い。熱湯を背骨に流し込まれたみたいに蕩ける意識。湿気た部屋でうつらうつらしているだけで終える休日。


何も考えない毎日を送っているせいで、何も書けない。
入力を失えば、必然出力も失われる。
何も思わないし、何も書けない、欲求が無い、ここは魂の監獄、幸せ張りぼてネバーランド


と、二週間も前に書いて以来僕は何も進歩が無い。
進捗のない日々、明日も今日も今日も一昨日も明後日もこれほぼ同じ。回転する輪が少しずつ運動力を失うように、気付かないうちに老いてしまう。
あらこんな染みがあったかしらなんて不気味で、儚い。これそれどれそれ。時間は目に見えない。数字が支配する。或いは彼女の描く絵も、彼が書く文芸も、快楽も、感動も、不快も、愛も、全部数値に変換できるかもなんて夢がある話だ。


絶え間無く、兎に角論理が破綻したような、これはノートの行の外の話だから、支離滅裂に会話したい。話を聞かないで聞いて欲しい。答えじゃない応えが欲しい。君君君、君なんていない。話したい誰かはいない。誰でもない。強いて言えば、君。欲をかくならば、僕自身。

四半世紀生きたって、何年生きたって変わらないものと変わるもの。変わりたいのか、変わりたくないのか。好きな人だけで、世界を作りたい。子供のおもちゃ箱みたいな世界で生きたい。ひっくり返して散らかして壊して大人が新しいおもちゃを補充してくれる。全て他力本願で、全て自分のままに、インターネットはプレイルームみたいなものか。

半月ほどセックスしてないので、まぁセックスなんてどうでもいいのに、どうでもよくないような、そういう曖昧だ。

何者にもならないことがトレンドなんだそうだ、最近の若者は。関係性は他者に対応して変わるものだからって。新人類なんだって。
僕は絶対的な他者でありたいのだ。三者の感性に楔を打つような強固な存在になりたい。

一者か他者か。


物を書くなり、人を傷つけるなりで金が得たいと思った。





お話を作る練習

  • 夢の感想のような、訓辞と矜恃がありませんよう。
  • 動物のお話でありますよう。
  • 読後のセンテンスドラッグ。

百万回生きた猫は、百万回の死を体験していることを忘れてはならない。
猫達のうちでは、一種の訓戒だ。百万回の幸せには、百万回の不幸せがセットでやってくる。世の中そうやって、天秤のバランスが取れてるのだと狭い額の奥の脳味噌に刻まれていた。
丁度、僕は40と5回目の死を迎えていて、40と6回目の生を受けるか思案してるところだった。
前の飼い主は幼い少女で、僕の今際の際には立派なリボンのついた制服を着るようになっていた。40あまりも死ぬことと生きることを繰り返すと、確かに情動は薄れるものだ。彼女は決して酷い飼い主ではなかったし、僕の死を看取る瞬間も大層悲しそうな顔をしてくれていたけれど、結局はそれだけなのだ。
僕の死は、天候と同じで彼女の気持ちを一時は曇らせるのかもしれないが、決してそれは永遠ではない。これは卑下ではなく、人間は変わることと忘れることで毎日を生きていけるのだ。なので、僕の死に流す涙は確かに真実なのだが、それは期限付きの真実なのかもしれないとすら思える。
悲劇とは、その感情が嘘ではないことが僕にとっては残酷で、さらに感傷できないほどに僕は老成してしまったという事実だ。

「どうして、僕等は死んだり生きたりするんでしょうか?」

声帯も言葉も、もしやすると意識すらないのかもしれないのに疑問符が尽きない。その代わり、緩慢に眠気が襲ってくる。

「どうして、僕等は死んだり生きたりするんでしょうか?」

真綿が口腔から詰められるみたいに、呼吸が現実を帯びる。母猫の胎内にまた戻る。事実としての空気を吸い、事実としての呼吸が始まる。

「ニャア」

鈍感になっていく、四肢の感覚だけは鋭敏に、猫という形態をとる魂の形。幸せはそう、子猫のかたち。

食物繊維をとりましょう。

髪の毛が少し伸びた。時間が否応無く誰の上にも経過するということだ。
先日の元恋人からの連絡は中々の傷心であった、伝えない自分の不実と彼女の体調が上手く合わさらなくなって、僕らの関係は潰えたのだった。
などとロマンチックに言ってみたが、食事をすることを取り戻した僕には、それはただの感傷できっと僕より素敵な誰かの為の言い訳に違いないなんて、反転してリアリスティックにしか思えないのだ。
だから、もし彼女が一人ぼっちになっても季節の花束も冬の野草も詰んでいかない。宇田川町にある喫茶店でコーヒー一杯を飲みながら、ひたすら話をしてやる。その頃の僕が、今頃の僕と同じ心持ちであったのならば。


とにかく、色んなものに鋭敏な一週間であった。原因はレキソタンって薬を3シートも飲んだせい。薬を沢山飲むことは、自分にとって自傷なのではなくて、自分への理解の手段だと思っている。結果としてこの世界がつらく厳しいなあと思うなら、僕はずっとこの世界に向いてなかったということだけ。
優しい嘘は、恋人に黙ってした誰かとのキスとかでいい。悪い嘘は、世界への下手な順応だと僕は思う。悪い嘘だけはつきたくなくて、僕はわーわー騒いでみてるけど、意外とみんなスマートで。明日は普通に明日ですよ?なんて澄まし顔で僕に説法する。僕がわからないのは、どうして明日って言えるの?ってところで、誰も答えてくれないで、そういうことに気付きたくて薬を飲んだりお酒を飲んだりする
だから、きっと助けて欲しいだけ。本当は答えも必要ない。
暖かいパスタと、暖かい布団で待っていてくれる恋人がいればいいだけ。
だけど、暗い理性が凡庸を許さないのだ。

吊革や手すりにおつかまりください

コミュニケートすること。
恋人のこと。僕の元恋人は大層献身的で、僕の作るものを支えたくて引きこもりから働くようになったんだって。でも、心の不調で働けなくなって、なんだ支えられないじゃないかと僕じゃない誰かのお家に転がり込んで二人で暮らしているんだ。
だから、もし君がふられてしまって一人ぼっちになったら季節の花束を持って向かえに行こう!と言ったら、冬に野草を摘んできてくれたらいいよって言われた。
そういうチグハグな関係性で曖昧な二年間を過ごして、僕は沢山食べる君とか僕と一緒なら薬なんていらないで寝れるんだよって言ってくれる顔とか、凄く料理上手なところが本当に素敵だったんだなと昨日の連絡で思い至ったわけだ。
バイバイ。バイバイしたくない!バイバイしたくない!

今の恋人も、別れ際にその恋人にお手紙のようなものを書いたから、きっと何かが似てるせいで、こんなことになっちゃうのだ。他人が読んでも全くつまらないのわかってるし、どちらのしおりさんも読まないのに、ふわっと私はロマンチックだ!って言葉を聞いて、何だか秋だしロマンチックだ!って僕も言いたくなる日もあるんだよ。