愛の眼鏡は色ガラス

転写される自意識

日の全て。

一年に一回くらい日記をつけると、日々の成長が見られていいかもしれません。

ビジネスメールの書き方は上手になりましたが、何だか自分の事を思い表すようなことは書けなくなりました。

書きたいけど書けないなって気持ちから、あー書く必要も無く俺は凡百な大衆の1人であるという強い意識、病理に苛まれてこうして社会に自我を溶かしていくもんだっていうアレですね。

髪の毛を切っては伸ばして、切っては伸ばして、日々中途半端なまま生きています。

このまま精神と身体が老衰して、しわしわに、ふにゃふにゃになって、いつの間にか右に倣ったように若者に説教垂れる老人になるのかもしれないのですが、それが進化と適合なのだと思うと、僕もまあ捨てたもんじゃないな、生きる意志強くあるなって思ったりもする。

ラブな事、特に無いです。人を消費しても、罪の意識に苛まれなくなりました。資本主義バンザイみたいな。そうそう、こんな感じでラフに物書いてたっけってすげえ懐かしくもあり、何だか久し振りに自転車乗った時みたいなあの尻が浮くような不慣れな感じもあり。足が地につかないような郷愁感がありますね。

 

あと何回こうした文章を書くのでしょうか。

あと何回こうした文章を書けるのでしょうか。

サリサリと削れる若い思考が積もって、老いた砂が沈殿して、感性が埋れていくの感じてます。

幸せ、幸せは盲目、幸せは聾唖、目と口と耳が塞がった顔面、呼吸の出来る真っ黒な液体の中でぬくぬくと膝を抱える幸せ。

ああ、幸せだなあ。