愛の眼鏡は色ガラス

転写される自意識

午後の恐竜

大体どこにもリンクを貼ってるわけじゃないのに、更新もないこのブログにぽつぽつと来訪者がいるの、とても不思議だと思うんですけど。

いつもこれを書く時は何かしら漠然とでもいいので、指向性みたいなものを設けてから始めるんですけど、今日はそのぽつぽつ見てる人達に悪いなあというふわふわした感じからスタートしてしまって、まるでフリックが進まないんです。
何かを伝えたいはずなのに、伝えたい何かが分からないし、何処かに帰りたいはずなのに、帰りたい何処かが分からないし。
枯渇?渇望?こういう月並みな言い方をすると胸のあたりがらんどうが、しくしく泣くと大体自分と相手にとって良くない選択肢をとってしまいがちです。
自暴自棄になるのは、本当に悪癖だと思うんですけど、一秒早く一歩も先へで崖を目の前にチキンレースしないとこれまた月並みに生きてるって感じがしなくて、じゃあそれやってる時の自分は生き生きとしてるのかというとそれもまた違くて。
末期癌の患者にモルヒネを与えるみたいに、場当たり的に問題を消化してるわけです。

まぁ嘘ばかり。

本当のことは、努めてこういったところに書けませんし、面と向かっても言えません。本当のことっていうのは、グニャグニャ不定形で、掴もうとしてもするりするりと指の間から逃げてしまって、本当のことがあることは分かるのに、本当のことを伝えることができないんです。

  • 死生は等価でなく、個々人の私的な所有物であった
  • 神の存在はドラッグ体験で得ることできない
  • 人間の視覚は思っているより曖昧にできている
  • 溶けるという視覚体験に、原初と進歩が同時に存在する

深い洞察ができるわけでなく、ただ只管日常に埋れた諸動作の微細なディテールに敏感になる感覚。
鈍感でいること、それ自体は悪ではないんだけど、僕たちが努めて感覚を鈍らせているということは知らなくちゃいけない。

ああ分からない書きたいことが分からない。
零時。