愛の眼鏡は色ガラス

転写される自意識

尻尾の生えた生活

偽悪的で、露悪的な自覚があって、それは多分他者から期待が怖くて無意識にそうして防衛線を作っているのだと思うのですが。
最近、自分に対する投げやりっぷりが臨界点に達しつつあって、このままじゃそのうち死ぬだろと思って、死んじゃダメ!っても考えるのでちゃんとぐるぐる思考するわけですね。
人間は誰しも多面性があるかと思うのですが、殊更自分のそれがひどくて本当に辟易している昨今で。自分でもおかしいかなって思うくらい、気分の浮き沈みがあって、まぁこれって昔から季節の変わり目はある話なんですけど、それにしてもここ数年は加速度的にその浮き沈みが激しくなってる気がするんですよね。
でも、病気って自称するほど大したもんでなくて、むしろ僕は凡庸な人間なので、そう特徴にもなるようなパラメータが設定できないような性質だと思ってるんですよ。

自分は特別だ!特別な人間なんだ!と喧伝するわけですけど、元々がそんなもんなんで空っぽうなんですよね。中身が伴わない。バランスよく、均衡、感覚を等しく均すこと、そういった調和がとれなくて、場当たり的に生きてます。

ずっと悩みながら書いてるんですが、今日のは殊更嘘っぽい日記です。本当のことだと思うんだけど、多分本当の部分は無意識に隠蔽してしまってるんです。一面的な自己を肥大化させて、自分は他者への理解を拒んでいるというか。キャラクタライズされた性格がいくつもあって、誰と何処で何を話すかで、まぁそんなもんは皆さん同じようにやってるんでしょうけど、凄まじく不器用なので使い分けをする自己を許容できなくなったりするわけです。問題点は、演技する自分でなくて、演技する自分を許せない自分にあって、ああ不毛だ。

生活することは不毛だと思います。食事、睡眠、セックス、日々のしなければならないこと、日々のしたいこと、会いたい人、会いたくない人、話したいこと、話したくないこと、音楽を聞きたくなる曜日はどこですか?気取った食事を用意したくなる天気はどんな?訳も無く寂しい日もあるんですが、宇宙に一人ぼっちでも大丈夫だなって寝る前に思うときもあります。人を愛してるなって自覚する瞬間と、人は性悪なものであると論じたい机もあったり。何というかままならないんですよ。ずっとずっと、上手くいかない気持ちが強くて、常に少し間違った選択肢を選んでて、小さな歪みが積み重なって大っきくなって、たまに何て醜い人間だろうと自分が直視できなくなります。

生きています!死にゆきます!
明日も多分、僕は生きてるんですけど、それがどうしたことだよ。何も期待されない期待されたくない息をしていたくない美味しいご飯を食べたい猫になって暮らしたい日々。ニャーン。