愛の眼鏡は色ガラス

転写される自意識

私達は借り物の言葉しか吐けない獣の群れ

作文することを調理に例えるなら、用意された文脈に沿って読解することは一つ食事に作法の一つなのかもしれない。

所作とはただそれだけでなく、盛られた料理をどう味わうかのガイドラインにも近い感じがしてる。料理の種類に対して、どの出番で味わうか、どの食器を用いて対応していくかというものなので。

それによって、多分感じるものって全然違ってくるかと思うのですが、このテーブルマナーってやつはバックテキストであり文化であり共通言語なので、当然異邦人には全く通用しないわけ。

 

Twitterに書く140文字ってショートテキストでは、私という文化をそれだけで汲み取るのは難しいし、所作の提示までは至らないことがしばしばなのですが、すげえ沢山の方に物を読まれるという経験はなるほどこういうことかと貴重な経験でした。

寿司にフォークを持参したりする人の事、何かを大勢に提供する時考えなければならないのかもしれません。

 

私達の感覚器は遠く、地球の裏側から、海底の底、宇宙の果ての方まで、種々様々な媒体を伝わって、知覚しますが、最終的に収まるのは肉と血で編んだ五感を通して狭い脳みその中に止まるわけで。

どこまで行っても、多分自問と自答の反復でしかないのかもしれません。

 

愛にまで飛躍しませんが、人と理解し合える事は、水中に投げ入れたパソコンの部品達が偶々組み上がる可能性、生命の誕生の奇跡にも劣らない素敵なことかも。

 

日々、平坦な日常ですが、偶にこういうサプライズと発見があるのは2019年のいいところなのかもって思いました。

 

  print("Hello world!")