愛の眼鏡は色ガラス

転写される自意識

盲人書簡

日々、人間を達観しようと努めてインターネットを右往左往する皆さんおはようからこんにちわこんばんわまでをフォローする私です。

死生観が、ここ数年でじくじくと腐ってしまっていることが一つの悩みです。
社会人として真っ当に毎日を過ごすことで、自分の中で見過ごせない色々な事を見ないようにしなくちゃいけなくなって、そういう小さい傷なものが膿んできて何が何でも生き長らえる!といった生物本来のエネルギー源は意識と理性に取って代わりました。
気力が萎えるとか、死にたいなんて病的な能動もなく、何と無く死に切れないし、来週の予定もあるから来週までは生きようといった惰性の毎日で、これこそ学生の時分に恐れていた″社会人″といったやつに成り下がった失望感でいっぱいなんです。
悲しいことに、精神は完全に健康で、思考と嗜好ばかり社会からどんどんと逸脱していって、名前をつけるとすれば、僕はただの怠け者なんだろうといったところで。

人間らしさとか、QOLとか、よくわかりませんが。僕は天気のいい日は散歩して、雨の日は読書をしたりできる生活がしたいだけなのに、何だか朝から晩まで机と椅子とコンピューターに縛り付けられてたら、気が滅入ってしまうなあ。


SNSって基本的には好きなんですけど、数値と人間の思念って、無機と有機が絡みついたみたいな不和があるじゃないですか、そういうよく分からないお化けみたいなものにたまに取り込まれそうになってしまって、逃げ出したくなるんですよ。嫌な癖だなとは思うんですけど。
お化けみたいなものは、人の欲求を食べて肥えて大きくなるみたいで。それこそ、色んな人からの視線や色んな人への視線や、フォローフォロワー数、誰と誰が仲が良くて誰と誰が仲が悪くて、好きな事嫌いな事、セックス、好きな人と一緒にいたいとか、まぁそういうごった煮が、嘔吐物みたいに臭ってきて、僕は人間がもうダメなのではないかと他者と自己に半分こずつ嫌悪をくれてやるわけ。

死ぬしかない!ってわけでも、生きよう!って感じでもないですが、少し疲れました。多分、あったかくていい匂いがして感傷的になるから。桜の季節はいつも何か駄目になります。