愛の眼鏡は色ガラス

転写される自意識

シアターファッキンテロリスト

他人の言葉がトリガーになって、思考のブレーキが外れっぱなしで、食べて戻して食べて戻してぐるぐるぐるぐるしてしまった一日だった。

年をとって変わったのは、見ないふりが上手くなっただけなんだけど、見ないふりをしていることを指摘されるといつもこうやってひどい自己嫌悪に襲われる。醜悪な自分がどうしようもないけど、そういう醜い自分を承認してほしい、という欲求が一際また不気味だ。気分が悪い。堂々巡りだし、袋小路だし、ずっとずっと抜けられない。ただただ無生産に自分を傷つけているだけなので、こんなことはやめたいのだけど、ブレーキが壊れてぐんぐん速度を増すのが止められない。景色がどんどん放射状に変わるほど、人らしい感傷の中からぷっつりと人らしくない自棄の芽が育って、そんな悩ましい全てなら君を悩ます何かなら、いらないだろって囁いてくる。単純な引き算なのか。快と不快の引き算は分かりやすくて好きだ。ぞくぞくする。ファジーなものが残らない世界には恐れがない。俺の思う理想と平和はそういう味気ない数式と秩序の世界だ。愛も嫌悪も等量等速等価だ。誰か何かに変換可能だ。ファッキンジーザス資本主義の果ては、平穏無事な数列の社会。全ての不足が確実に補完されることを知る。勿論、そんな桃源郷は来ない。

死生の境界線は一度きりだけ誰にでも使える掛け値なしに絶対的な体験と秩序だ。そこには疑問もない。純度100%の真実。ドラッグもセックスも演劇も、小さい死、擬似的な死だ。真実への到達を模写する。どうやってみても贋作だ。紛い物ばかりが身に溜まっていく。
一回性の死、パッケージされて陳列されたものが真実と言えるわけがない。安易な方法に逃げるのは、俺が弱く矮小な人間であるからだ。死ね死ね。これだこの快楽。今日も明日も粗雑な愛撫を繰り返せ。擦り切れて無くなるまで。

虚勢が答えだ。張った虚勢で、己と他人を傷つけろ。人間は、少なく見積もっても俺は不毛な人間だ。

明日はLIVEです。シアターファッキンテロリストっぽくやろうと思います。