愛の眼鏡は色ガラス

転写される自意識

お話を作る練習

  • 夢の感想のような、訓辞と矜恃がありませんよう。
  • 動物のお話でありますよう。
  • 読後のセンテンスドラッグ。

百万回生きた猫は、百万回の死を体験していることを忘れてはならない。
猫達のうちでは、一種の訓戒だ。百万回の幸せには、百万回の不幸せがセットでやってくる。世の中そうやって、天秤のバランスが取れてるのだと狭い額の奥の脳味噌に刻まれていた。
丁度、僕は40と5回目の死を迎えていて、40と6回目の生を受けるか思案してるところだった。
前の飼い主は幼い少女で、僕の今際の際には立派なリボンのついた制服を着るようになっていた。40あまりも死ぬことと生きることを繰り返すと、確かに情動は薄れるものだ。彼女は決して酷い飼い主ではなかったし、僕の死を看取る瞬間も大層悲しそうな顔をしてくれていたけれど、結局はそれだけなのだ。
僕の死は、天候と同じで彼女の気持ちを一時は曇らせるのかもしれないが、決してそれは永遠ではない。これは卑下ではなく、人間は変わることと忘れることで毎日を生きていけるのだ。なので、僕の死に流す涙は確かに真実なのだが、それは期限付きの真実なのかもしれないとすら思える。
悲劇とは、その感情が嘘ではないことが僕にとっては残酷で、さらに感傷できないほどに僕は老成してしまったという事実だ。

「どうして、僕等は死んだり生きたりするんでしょうか?」

声帯も言葉も、もしやすると意識すらないのかもしれないのに疑問符が尽きない。その代わり、緩慢に眠気が襲ってくる。

「どうして、僕等は死んだり生きたりするんでしょうか?」

真綿が口腔から詰められるみたいに、呼吸が現実を帯びる。母猫の胎内にまた戻る。事実としての空気を吸い、事実としての呼吸が始まる。

「ニャア」

鈍感になっていく、四肢の感覚だけは鋭敏に、猫という形態をとる魂の形。幸せはそう、子猫のかたち。