愛の眼鏡は色ガラス

転写される自意識

笑う月

僕の生まれた北関東の田舎は本当に典型的な地方都市という様相で、多分似たような原風景を持つ人は多いのではなかろうかと思う。
周りは田んぼばかりで平面なくせに、少し自転車を走らすとローカルなレンタルビデオショップやスーパーマーケット、小さな本屋と申し訳程度のブックオフ、よそ行きの服を設える日は車で30分、大型デパートへ。映画、レストラン、ショッピング、屋上の遊園地、大きな立体駐車場を登っていく車の中で、小さな僕は秘密基地やお城に思えたのを覚えている。

昨日は久し振りに、本当に久し振りに車を走らせてみて、昔通っていた博物館に行ってみた。
開館したのは、ちょうど20年前で僕はその年に行われた企画展を皮切りにして、出し物が変わるたびに両親にねだって10年弱くらいは通っていたような覚えがある。なので、あれがどこにどこにそれがなんて記憶もそこそこ残っていて、それが宣言通りに符合する度に不思議な高揚感が生まれるのだ。
思い出、記憶をなぞることはどうしてこう甘い味がするのか。
時間が止まってしまったような世界観の中で生きる昔の学友を、僕は確実に軽蔑した目で見ていたけれど、何のことはない僕にもそういう資質があったのだ。


常々思うのは、変化への不安である。
季節は同じように毎年めぐってくるのに、僕達は同じようには迎えられない。伸びてゆく髪の毛、新しい携帯電話、去年の今頃手を繋いで歩いていた恋人が他人になるということ。
子供と大人の決定的な違いは、子供は思い出を堆積するだけで済むのに、大人は増え過ぎた分の思い出はある程度取捨選択しなければならない点だと思う。
僕がずっと子供でいたいと思う理由はまさにそこなのだろう。僕は両手に抱え切らなくなっても、人の事や物の事を覚えていたいし、でも常に新しい誰かや物も欲しい。
たまに持つのが疲れてしまって、放り投げてしまったりする。散らかったのを泣きながら拾ったりするのを、もう何度繰り返して何度大人になればいいとも思ったけれど、そういう仕方なさみたいな理由がないと僕は自分から選ぶことができないのだ。


平均化ということ。
僕の田舎は高速度で開発が進む。駅を中心に横に長いショッピングモールが幾つも建設されてる。全部耳心地いいカタカナの名前、全部に映画館が入っていて、全部にレストランが何軒も入っている。中が吹き抜けになっているのも同じ、至る所にベンチがあって、高校生のカップルや老夫婦が座っている。
とにかく服!雑貨!物物物物モノものモノモノモノモノ!
なんだけど、どうにも蛍光灯で一律綺麗に光る洋服も、流行りのポップスを揃えたCDショップも、和洋中ひしめくレストランも、どれも彼もが同じに見える。
きっとこのショッピングモールは、物を売るだけではない、規範や倫理も売りつけるのだと思うと、空恐ろしくなる。
流行りの性別らしい服装、皆が見る映画、ベストセラーの本、テレビで一度は聞いたことがある歌手、核家族向けの分量に分けられたお惣菜の山。
ここに歩く人はかくあるべしの模範囚で、ここに勤める人はかくあるべしの看守なのだ。

でも、ピザは美味しかった。


この曲を聞くと、歌っていた人と好きな人と愛してくれと言ってきた人を思い出して不快なんだけど、CDを件のショッピングモールで購入した。
つまり、僕も倫理を模範したいということ。