愛の眼鏡は色ガラス

転写される自意識

考えていることを書く練習

140文字に終始しない文章を書こうと書こうと腐心しているのですが、1ツイートというパッケージにすっかり慣れて怠惰してる僕の感性が言うことを聞いてくれないのです。

様々なことが一回分に分けられていると最近ひしひしと感じます。旅行先では、一回分のシャンプーと一回分の歯磨き粉、耐久性を感じないタオルやリネンの類いもあるいは一回分でしょうか。お弁当を買うと付属する一回分の醤油さし。一回分で捨てられる割り箸で、年間何万軒という木造の家が建てられると聞きました。電車で乗り合わせる一回分の他人、バーで隣り合った一回分の話し相手、お金で買う一回分の恋人。一回分のキスと一回分の触れ合いと一回分のセックス。
刻まれ、単位化していくということの第一義は、商用への転化だと思います。まさに今の自分も肉を持って歩く個人の意識の一回分のセンテンス。それを見世物に見られる快感を買っているわけです。

見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。見られる傷みに耐えようとして、人は歯をむくのだ。しかし誰もが人間になるわけにはいかない。見られた者が見返せば、今度は見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ 『箱男


考えることをよしなさいと母に教えられてきました。どうも私は考え過ぎてしまうきらいがあるから、あなたの全ては理想論でしかないのよという意味の言葉でした。

でもそれでいて、本当は私は一番俗っぽく生きていることを私が一番良く知っています。